パブコメ

2500字書いてもいいというので、2500字書いた。。。

ゼロシナリオに賛成です。日本列島は地震の多発期に入りました。54基もの原発を作ってしまったこと自体、愚かなことと考えます。一刻も早く原発ゼロシナリオの選択を決意し、すべての原発を廃炉にすべきです。

ヒロシマ・ナガサキに対する原爆投下は、ポツダム宣言後すみやかに戦争の終結を決意していれば、免れた災厄でした。8月5日が終戦記念日であれば、ヒロシマ・ナガサキへの原爆投下はなかった。人類史上致命的と言ってもいい愚挙である原爆投下を巻き起こしたのは、明らかに施政者の判断ミスです。

今、福島はフクシマとカタカナ表記され、ヒロシマ・ナガサキ・フクシマと呼ばざるを得ない状況になっています。

万が一、3.11に匹敵するあるいはそれを上回る規模の地震と津波が発生したときに、日本はまたカタカナで表記する地名を持つことになるでしょう。政府の発表する安全指針は、3.11と同程度の地震・津波が発生した場合でも大丈夫という程度の安全しか、守ろうとしていません。「同程度」というのはどういうことでしょう。さまざまな条件が、同じであるはずがないし、ありとあらゆる災厄は千差万別。予測不可能です。

自然エネルギーだけでは足りないという反論をする人がありますが、「だけ」に今すぐする必要はないですし、化石燃料を使用する期間を十分な期間確保しつつ、自然エネルギーへのシフトを、ものすごい勢いで行うことは可能です。太陽光、風力、地熱、さらに省エネのための様々な知恵。ピーク時の電力さえ押さえることができれば、原発に頼る必要なひとつもありません。太陽光は細々と設置することが可能で、夏のピーク時、猛暑に多くの電力を生み出してくれます。今、われわれには、自然エネルギーにシフトしていく知恵もあれば、財力もあります。原発に頼らざるを得ないという人たちは、目の前の経済という化け物に目を眩まされているからに他なりません。

以下に、原発ゼロシナリオの障害となっている経済の仕組みについて、言及します。

廃炉となれば、電力会社が保有し、資産計上している使用済核燃料が一挙に不良資産化します。しかし、もう誰の目から見ても不良資産でしかない使用済み核燃料に、幻の価値を見出し、それにしがみつくべきなのでしょうか。すでにない価値をあたかもあるように装う。経済の仕組みをそのような脆弱性の上に預けていることの危険をこそ、きちんと認識するべきです。

株式会社の倫理は金もうけであると、わたし自身、大学の講義で聞かされましたが、このような愚劣な言説が今でもまかり通るのでしょうか。企業の社会的責任ということが声高に叫ばれていますが、もっとも重要な側面において、責任のある立場にいる人たちが、倫理観を欠いたまま、さまざまな判断を行っていると思えてなりません。

今も、福島第一原発からは、放射能がばらまかれています。子どもたちの健康被害が最も懸念されるところですが、大人たちの健康も蝕まれているのは明らかです。

自然科学の緻密さが、本来であれば、人々の信頼を得る方向に用いられるべきところ、疫学的というもっともらしい尺度によって、チェルノブイリ原発事故から十二分に取り返しのつかない期間を経て、やっと子どもたちの甲状腺がんと事故との因果関係が認められました。本来行うべきであった健康被害の予測を否定し、子どもたちの人柱の上に、疫学的な数値、明らかな数値を認めざるを得ないというところまできて、やっと因果関係を認定したのです。

そして今、癌の発生や心筋梗塞やさまざまな病気の発生を、「心配し過ぎ」というような穏やかで呑気な井戸端的な言葉のまやかしで、言い逃れようとしています。

地球を一歩出れば、そこは放射能があることは当たり前です。人間の生きられない世界です。地球が地球でなくなってしまえば、われわれは生存する場所を失います。人間がなくなれば、国家もなにもない、無、となります。SF小説の物語ではなく、われわれはまさにそのような場面に直面しています。DNAが傷ついているのです。

わたしは、人類の一員として、世界中の原発が廃炉になることを望んでいます。そして、日本国民の一人として、日本が理性的な選択をすることを望んでいます。

プルトニウムの保有(核兵器を視野に入れた)という欲望を裡に抱えて、原発の有用性をまことしやかに語る人もいます。原爆(保持の可能性)によって、平和を維持しようとすることは、明らかに憲法に反します。憲法前文において、日本国民は、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意」している以上、武力による安全保障を模索するということは、憲法九条からも否定されるべきことと考えます。今現在あるプルトニウムについて、憲法23条(学問の自由)に任せるべきでしょう。科学技術は商業に汚染されることなく、研究推進される自由を持ちますが、国民の生存に危険が及ぶ形で、大規模な商業利用によって、学問研究の自由が守られる必要も理由もありません。

次に、廃炉について、コメントします。

福島第一原発の廃炉処理は、それに従事する人たちの人権を明らかに侵害するものです。今現在、これらの作業に従事している人たちは、経済の歪みによって、もたらされた労働者たちと考えます。また、この経済の歪みは原発労働者を斡旋する人たちに富をもたらしています。そしてこの斡旋に従事する人たちから、間接的に利益をえているのが、原発立地地域の為政者たちです。原発を辞めることができない経済の仕組みにがんじがらめにされています。すべての利権から、原発を解放しなければなりません。わたしは、福島第一原発の廃炉作業について、現行憲法上、人権を制限できる人の存在を指摘し、彼らに廃炉作業に従事させる仕組みを早急につくりあげるべきであると提案します。

すなわち、憲法18条「何人も、いかなる奴隷的拘束も受けない。又、犯罪に因る処罰の場合を除いては、その意に反する苦役に服させられない。」犯罪による処罰の一環として、刑務作業の一環として、廃炉作業を組み入れることを提案します。その場合に、作業労働者の健康の管理、自由刑の短縮、及び作業後のアルコール飲料の提供など、できうる限りの人権への配慮をすることも重ねて提案します。