1脱原発以外あり得ない 1-1選挙にでる?でない?

じぶんの人生の中で、選挙に出てみようと考えたことのある人はどのくらいいるのだろう。中学や高校の頃に生徒会に立候補をしたことがある人は、それなりにいるのかもしれない。わたしも高校生の頃、生徒会に立候補した。1960年代のはじめに生まれたわたしの世代は、しらけ世代と呼ばれていた。全共闘の嵐が過ぎて、政治的な主張はなりをひそめ、生徒会に対する生徒の興味は希薄で、選挙は信任投票だった。そして、信任投票だったにもかかわらず、女子生徒が生徒会長をするということに抵抗があったらしい当時の高校生は、わたしが生徒会長になることを一度は不信任とした。他の生徒が一人も立候補していないにもかかわらず、である。そして、一年先輩の選挙管理委員会の委員長が校内放送を通じて演説をして、もう一度投票を行うことになった。そのおかげで、わたしは、都立保谷高校第11代生徒会長に信任された。これが、選挙に出ることの人生最初の体験であった。みながみなしらけているなかで、なぜわたしが生徒会選挙に出たのか。理由はとても個人的なことだった。2歳年上の従兄が中学生のときに、「女の子には生徒会長はできない」と言ったのだった。わたしは従兄に反論したかった。しかし、言葉で言ってもしょうがないので、じぶんが生徒会長になってみせることで「女の子にも生徒会長はできる」と証明したかったのだ。
あれから30年以上たって、また、立候補という選択肢が自分の人生に舞い降りてきた。3.11、東日本大震災の後に引き起こされた福島第一原発の過酷事故。わたしにとって、脱原発は当然のことに思えた。しかし、当然のはずなのに、原発を辞めるという決断を政府はしないのだった。そして、こんな人たちに政治を任せているべきではないという考えは、徐々にではあるがわたしの中に芽生えていった。
マエキタミヤコという行動力のある女性がいて、一人一万円を6百人から借りて、衆院選出馬のための6百万円の供託金を作り、受かったら返す、受からなかったら返さないというプランを立てて呼びかけていた。わたしは、それにノッた。わたしも選挙のことなど何も知らなかったが、この指とまれと声を上げたマエキタさんも、わたしと同じくらい、選挙について知らなかった。選挙出馬は6百万円では足りなかったし、第一、6百万円の貸金ないし寄付の申し出はそう簡単には集まらなかった。
マエキタさんとの出会いが2012年8月。わたしが、国会議員を目指すために、政治団体「山口あずさと原発ゼロにする会」を作ったのが同年9月だった。わたしは、書面はそれなりに読めるので、政治団体は簡単につくることができ、団体を作ると同時に寄付を集め始めた。政治団体というのは要するに、合法的に寄付をあつめることのできる団体なのだ。ネット上で必要書類をダウンロードして作成し、都選管に持って行った。会計処理をネットで行う仕組みも団体設立時に申し込んでおいた。仕事をしながらの選挙だったので、ネットでの会計処理ができるのはありがたかった。できることはすべて自分でする。それが市民選挙の鉄則だろう。人を雇うお金などなかった。会計処理ももちろん自分でした。選挙のあれこれについて、手取り足取り教えてくれる人も、代わりにやってくれる人もいなかった。
ある団体が主催した議員会館での集まりで、衆議院に立候補すると宣言したところ、さっそく寄付してくれる女性があった。これが人生で最初に受け取った寄付だった。九州から脱原発の集会に訪れていた年配の女性が、立候補の心意気に賛同してくれたのだった。「この機会を逃したら、もう二度と会うことはないかもしれないから」と言って、その女性は寄付を手渡してくれた。わたしはその最初の寄付だけは手を付けずに持っている。「山口あずさと原発ゼロにする会」の通帳には他の一万円札を入金して、そのとき手渡された皺の多い一万円札はそのままお守りとして持っていることにしたのだ。その最初の寄付は、わたしにとって、立候補しなければと思ったことが、決してわたしだけの独りよがりじゃないことの証だった。
その後、実際には会ったことのないネット上の知人が10万円寄付してくれた。また、古い友人から、20万の寄付があった。数千円から、数万円の寄付がぽつりぽつりと集まりだした。600万円には到底とどかかなったが、とりあえず貸金の申し出だけをしてくれと呼びかけたにもかかわらず、複数の人が実際に振り込んでくれた。いわゆる政治家の方たちにとって10万円、20万円という金額がどのくらいの意味を持つのかわからないが、わたしにとってはたいへんな寄付だった。脱原発の必要を痛感して、何としてでも政治を変えなければと思っていたのは、わたしだけではなかったのだ。脱原発は有権者にとって、大きなメッセージになるはずだった。その後、「脱原発は票にならない」と言われるようになるとは思ってもみなかった。
そして、衆院選は唐突にやってきた。2012年12月、供託金の600万円などどこにもなかった。600万の供託金を自力で集めるのは無理と判断し、仲間内で、某政党の公募に応募しようという話になった。そのつもりで書類を集めて届けようとしていたその日、突然、亀井静香氏が会ってくれることになった。当時、立候補をしたいと考えていたのは、わたしと、マエキタミヤコと、丸子安子、そして藤島利久。女性3人はいろんな場面で脱原発の集会に顔を出していたのだが、藤島利久氏がいかなる人物なのかはよくわからないままに、4人で亀井氏に面会に行った。チェ・ゲバラの写真が飾られた部屋で、1時間、ご自身がなぜ政治家になったのかを話していただいた。亀井氏は元警察官僚で、浅間山荘事件に至る極左との戦いの話を伺った。目の前で部下を射殺され、頭から油をかけられて燃やされる人を見たと言う。まさに戦場だった。そしてある日、亀井氏は政治家になると決意し、ある朝、奥さんに警察を辞めると告げた。
「誰にも相談しないで一人で決めたんだ。政治家になるというのは、そういうものなんだよ。君たちにはその覚悟があるのか?」
脱原発の運動家に必ず票が集まると信じていた実に短い期間の中で、わたしは衆院選出馬を模索していた。亀井氏のそのときの政党、「減税日本・反TPP・脱原発を実現する党」は、面会から2日後に解党し、「日本未来の党」ができた。脱原発のための政党ができたことをわれわれは喜んだ。そして、その「日本未来の党」から電話がかかってきた。供託金600万円と選挙資金300万円、併せて900万円を自分で作れるのであれば、どうぞ立候補してくださいと言われた。そんなお金はあるはずもなく、わたしは二つ返事で断った。一方、丸子安子と藤島利久はどこからかお金を捻出して出馬した。しかし、結果は惨敗。脱原発に集票力があると思い込んでいたわたしたちの妄想は簡単に打ち砕かれた。2012年12月16日、都知事選と同日投票となった衆院選投票日、投票所にできた長い長い列から、投票率の高さを期待したが、戦後最低の投票率だったと後に報じられた。
これほどの状況に陥りながら、脱原発のメッセージが力を持たないことの恐ろしさ。わたしはかつてテレビ画面で見たブロイラーのひよこを思い出した。高いところに設置されたガラス板の上を、ブロイラーのひよこは恐れることなく動き回った。ブロイラーではないひよこは、ガラス板の上で足がすくんで動けなくなった。高いところが怖いという生き物が本来持っているはずの恐怖心を、ブロイラーのひよこは失っていた。人間も、ブロイラー化し、原発の過酷事故を体験してもなお、技術の進化の一過程であると、足元に感ずるべき恐怖を感じなくなってしまったのだろうか。
いずれにせよ、わたしは衆院選に出馬しなかった。出馬しなかったので、それまでにいただいた寄付を返そうと思って、寄付をしてくれた人たちに連絡をした。しかし、返して欲しいと言う人は一人もいなかった。わたしはやはり、何かするべきだった。
その時点で、都議選になら出ることができるくらいの寄付の申し出があった。都議選の供託金は60万円だったから、600万を用意しなければならない国政にくらべればハードルは低かった。
わたしは、『原発』都民投票の署名集めに参加し、都議会に対しても思うところがあったので、衆院選出馬断念の後、都議選出馬を視野に入れることにした。