山上徹也氏を英雄視してはいけないという言説について

1月13日に司法記者クラブで「山上徹也氏の減刑を求める署名」に関する記者会見をして、わたしの今までの記者会見の体験の中で、もっとも多くのメディアの参加を得ることになりました。
翌日、朝、毎、読、日経、産経、東京を買いました。
ネット上では記者会見の写真付きで記事になっていましたが、紙面は写真掲載したところはなく、記事中で署名への言及があったりなかったりという扱いでした。
もっとも記事を載せてくれたところも通り一遍の扱いでした。そんな中で、文化放送が切り取ってくれた部分は、有難かったです。

「民主的な社会が本当に実現していれば、暴力を振るったものを英雄視するということはないはずです。この事件に関して、本当に民主的なところで起こったのであれば単に山上氏を批判すればよいと思いますけれども、そうではない事情がありますよね。統一協会が犯罪を取り締まられることもなく犯罪行為を続けられたという決して民主的ではない社会が今現在あって、そこでこのような暴力が起こって。どのような土台の上で何が起こったかを考える必要があると私は思うんですよね。」(文化放送「ニュースパレード」2023/1/13 17:00から)

動画配信はIWJが記者会見の全容を配信してくれました。また、翌14日には、サンジャポ(TBS)が取り上げてくれたので、友人に会うと、TVを観たとか、観損なったという話になります。サンジャポの扱いは、決して好ましいものではなかったのですが、TVの影響力の凄さを今更ながら思い知らされています。

ところで、「どんな理由でも暴力許されぬ」と社説のタイトルに記載した読売新聞を始め、暴力を許容する言説がないのは当然として、わたしも暴力が常態化した世の中などこれっぽちも望んでいないわけです。
ここで、記者会見でも聞かれた山上氏を英雄視することについて、少し書いておこうと思います。

まず、憲法第九十七条を確認したいと思います。「この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。」
この条文にある「人類の多年にわたる自由獲得の努力」「過去幾多の試錬」という言葉は、血が流れたことを言っているとわたしは感じるのです。夥しい血が流れ、その結果、暴力を排除する民主社会が生まれたと、わたしは感じています。

そして、もう一つの条文が第十二条です。「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。」
日本国民のみなさん、「不断の努力」してますか?

旧統一協会は、その犯罪的体質及び行動を、なんら制限されることなく活動を続けてきました。行政に対して立法がチェック機能を果たさず、加えて、司法が行政の違法行為をチェックせず、旧統一協会は国民からお金を巻き上げ、子どもたちが性教育を受けて性の自己決定を学ぶことを阻害してきました。

オウム真理教が摘発されたときに、「次は統一協会」と言われていたというのは事実でしょうから、警察の動きを止められるような政治があったということでしょう。こんな状況は民主主義に反するものです。そもそも論として、民主主義が暴力を排除し得るのは、司法行政立法の三権が分立し、それぞれの権力が主権者である国民市民に資するように働くからこそです。行政府が国民のためにならない働きをしたのであれば、まずは立法府がそれを糺すはずで、それでも足りなければ司法府が糺さなければならないのです。つまり、民主主義がきちんと機能するとき、暴力には出番がないのです。民主的な仕組みの中ですべて解決するのですから。

とても単純な構図で、山上徹也氏が置かれていたおよそ民主的でない状況が暴力を呼び込むことは、なにも特別なことではないように思われるのです。民主主義が機能不全に陥るとき、社会は暴力と親和的になり、義賊がもてはやされることになるわけです。

卵が先か鶏が先かという話ですらなく、民主社会が先にきちんとないのであれば、暴力が立ち現れてくることに、何の不思議もないということになります。
実際問題として、山上徹也氏の暴力は、文字通り功を奏し、旧統一協会の悪事を暴き、かつ、政治家との癒着も暴くことになりました。

三権分立がやるべきことに替わって、一発の銃声がいとも簡単に成し遂げたことについて、わたしたちの社会は猛省すべきだと考えます。そして、この暴力を呼び込んだのは、山上徹也氏個人ではなく、社会全体なのです。わたしたちの社会は、山上徹也氏を無罪にするわけにはいかないと思いますが、同時に、山上氏のみに重罪を背負わせることは、フェアではないように思うのです。

不断の努力というキーワードを今一度思い起こせば、統一教会の選挙利権が有効になってしまうくらいに、選挙の投票率は著しく低いわけです。地方選挙に至っては30%台がざらで、道行く人の3人に2人は選挙に行かないわけです。

わたしは3人のうちの2人の投票に行かない人に話しかける言葉を持たないことの不明を恥じています。

わたしたちの社会は、一人一人が民主主義のため、基本的人権のため、自由のために努力することを怠り、山上徹也氏の暴力を呼び込んだのではないでしょうか。すると、わたしたちの社会がある一人の犯罪者に刑罰を科すときに、その社会そのものにそれだけの権利があるか否かについて、今一度考えることは、必要不可欠なことのように思われるのです。

わたしたちの社会が、山上徹也氏を無罪にするわけにはいかないことは重々承知の上で、厳罰に処すると言えるほどに、わたしたちの社会の民主主義は健全だったとは言えないように思うのです。そしてそのことを、わたしたち自身が考える必要があるように思います。

〇署名がまだの方はぜひ、ご協力ください。情報の拡散にもご協力をお願いします。

山上徹也氏の減刑を求める署名

山上徹也氏を英雄視してはいけないという言説について」への1件のフィードバック

  1. 私が言いたかったことが書かれています。
    ありがとうございます。
    山上徹也氏は民主主義を壊す事件を起こしたのだから重罪(極刑)にするべきという世論にずっとモヤモヤしてきました。
    殺人という事実とその背景の統一協会や生い立ちは切り離して考えるべき、なんて言説もよく聞きます。
    民主主義が機能していれば、本来起こらなかった事件ですよね。
    政治と社会が反省するべき事件だと思います。

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