まじめな不良が、時代を変える。既成概念に縛られた優等生は、時代の変革期にはあまり役に立たない。有給休暇で選挙に出る!少々乱暴だと思われるかもしれないが、わたしは不良サラリーマンに時代を変革して欲しいのだ。
2013年の年明けに市議補選、6月に都議選、そして、2014年末の市議選、わたしは3回選挙に出た。議員になろうと思って出たのだが、議員にはなれなかった。議員になれなかったので、選挙に出なければよかったと思ったかというと、そんなことはない。選挙に出るというのは、ものすごく特別な体験で、一生のうちに経験しておいて損はないと思った。
もっとも、選挙に出るのはやはりかなりの冒険だ。さすがにこのような冒険を、今後の人生においてもう一度するかと聞かれたら、躊躇する。他の人に相談されたら、まぁ、1回くらいはやってみたらと答えるだろう。最初の市議補選は、有給休暇で出ることができた。有給などない人はどうするのかと聞かれると返答に困るが、とにかく、世の中に大勢いる有給休暇のあるサラリーマンに、ちょっとした不良体験をすすめるつもりで、この文章を書く。サラリーマンでありながら、ちょっとグレてみないかと、言悪魔のささやきだ。会社の意向で選挙にでるのであればともかく、公民権の行使を逆手にとって、選挙に出ようというのだから、会社にとっては迷惑な話だろう。しかし、まじめに生きてきた人生、ちょっとぐらい冒険したって罰はあたらない。それに、今の世の中、このままでいいとは思えない。SOSが聞こえているのはわたしの耳にだけではないはずだ。こんな政治でいいはずがない、それは、あなたの耳にも届いているだろう。他のだれかではなくあなたの耳に!
わたしは、会社人間としては少々不良だった。新卒で務めた会社は1年半で辞め、一つの会社に長く続かず、80年代の終わりに派遣という働き方をはじめた。一つの職場に8か月くらいいて次に移った。仕事はいくらでもあったし、仕事を変われば、あるいは、年度が替われば、昇給していた。後に、バブルと呼ばれた時代だった。しばらくして、どうにも様子がおかしくなった。上がり続けると無邪気に思い込んでいた時給が値下がりし始めたのだ。ちょうどその頃、自宅から自転車で20分というNTTの研究所での派遣の話があり、ここにはしばらくいようと思った。雨宿りのような気持だった。そして、短期雇用契約で15年在籍することとなった。居心地もよかったのだ。この15年間の最後の2年半は、ロースクールに通いながらの勤務だった。研究所は大学院卒が標準だった。超高学歴な環境に身を置いて、自分も勉強をしてみたくなったのだった。理科な人たちに囲まれていたので、勉強がしたければ教えてくれる人はいくらでもいただろうけれども、わたしには四則演算を超える理科的なセンスはなかった。ちょうどロースクールができた時期でもあり、法律の勉強に興味を持った。夜間があるロースクールはあまりないのだが、たまたま自転車で行ける成蹊大学にロースクールの夜間があった。受験することにした。面接で「大変だよ」と研究科長に3回言われ、「がんばります」と3回答えた。もっとも、さすがに天下の司法試験は、そう甘くはなかった。仕事をしながら未修コース(法律の初心者のためのコース)に通った同級生は、わたしも含めて、大多数がこの難関を突破できなかった。もっとも、3年間の苦行を経て職場に戻った友人たちには、それなりのポストが待ち受けていたようだった。わたしはというと、当時、母の従弟で我が家の水準からいうとコペルニクス的に出世した人がいて、司法試験を受けるのであればあまり忙しくない会社がいいどうろうと言って、某社を紹介され、IT部門に配属された。この会社の上司が、とても理解のある方で、そのお蔭でわたしは選挙にでることができた。有給休暇で出る選挙の必要条件の一つは、上司に恵まれているということである。もっとも、そうなると、またハードルが高くなってしまうかもしれないが、少しわがままを言っても戻れる職場かどうかは重要なポイントである。何もかも捨てて背水の陣でなければ選挙に出られないとなると、選挙に出ることのできるのは一部の限られた人になってしまう。これでは、民主主義は育たないのではないだろうか。無風選挙であったり、揚句、無投票であったりで、選挙に関心を持ちたくても持ちようもないような地域が今でもある。このような状態が続いていたら、民主主義が形骸化するのは当たり前だ。
サラリーマンとして、それなりにビシっと仕事をしているような人物が、政治の世界に入ってくるべきなのだ。そうでないと、この閉塞感から抜け出すことはできない。脱原発もできず、立憲主義の重要性の理解を欠いたまま、憲法も変えてしまいましょうなどという頓珍漢な政治をいつまでつづけさせるのか。今こそ、サラリーマンは立ち上がるべきだ。
ところで、メキシコにはこんなことわざがあるそうだ。「結婚すると、自分の欠点がわかる。死ぬと、自分の徳がわかる。」
わたしは結婚していないので、じぶんの欠点がわかっていないが、選挙に出て、それなりにじぶんの徳がわかった。もっともその徳は、後に失われる可能性もあるけれども、選挙に出るためにボランティアを募ったり、寄付を募ったり、わたしには、それに応えてくれた人たちがいた。どれほど勇気づけられたかわからない。ものすごい冒険をする必要はない。ちょっとした冒険をするつもりで、ちょっぴり贅沢な海外旅行に行くくらいのお金をかければ、選挙にでることができる。そして、選挙期間中は、じぶんが主役でいることができる。選挙に出ると言うのは特別な体験なのだ。この体験をわたしはあなたにもしてみて欲しい。