1-2市議補選!

これから立候補を予定している人には、ぜひ、覚えておいて欲しいのだが、市議補選というのは一番安全な選挙なのだ。なぜかと言うと、まずほぼ確実に供託金がかえってくる。その理由は、補選の供託金没収ラインが本選と同じだからなのだ。たとえば、わたしが住んでいる西東京市の場合、市議の定数は28名で、市議選の供託金没収ラインは、有効投票数÷28÷10で導き出される。西東京市の現在の40%を少し超えるくらいの投票率であれば、有効投票数は65,000票に満たない程度であり、これを28で割ってさらに10分の1なのだから、250票もあれば確実に供託金は戻ってくる。ちなみに市長選と同時に行われた2013年の補選は、通常選挙よりも投票率は低く、当日有権者数が158,578人、投票率が36.91%で、有効投票数は585,311票、ここから供託金没収の票数を算出すると、209票になる。候補者は4人だったのだから、この得票数を下回るということはまずありえないだろう。
もちろん、市議補選とはいえ、供託金没収は皆無ではない。確率として低いということでしかないが、この確率の低さは他の選挙とは比較にならない。そして、立候補者数が少ないこと、イコール、名前を売るのに最適ということにもなる。要するに自分の選挙区での「売名」ができるのだ。もっとも市議の補選は欠員が生じたからといってすぐにあるわけではなく、議員の不足数が6分の1を超えるに至った場合、または、同一選挙区における他の選挙と同時でないと行われない。
2012年12月の半ば、それまで断トツの得票数で西東京市議に当選していた森てるお氏が市長に挑戦する決意をし、そして、後進に道を譲るため、市議補選が可能なだけの余裕を持って現職を退くとブログで表明した。その話を聞いてから、わたしが立候補を決意するまでは半月ほどだった。補選は名前を売るのにちょうどいいと、複数の人から言われ、その気になった。選挙というのは、確かに売名になるのだ。わたしには「売名」がいかなる理由で悪いとされているのかがよくわからないのだが、選挙に勝つためには売名をする必要があり、わたしはそうすることにしたのだった。市議になってしまったらそれでいいし、とにかく、都議選のため名前を売る。それがわたしの市議補選立候補の動機であり目的だった。
開けて2013年1月1日、わたしは応援してくれそうな人たちにメールを出し、市議の補選に立候補するから6日に集まって欲しいと告げた。補選の告示日は1月27日、投票日は2月3日、告示日までに1か月もない中で、どうするつもりだったのか。選挙の常識が多少でもあれば、立候補自体無理だと思って諦めたかもしれない。何も知らないことが強みになって、立候補はできると思っていた。そして、このバタバタの選挙が、じぶんにとってだけでなく、他の候補にとってもバタバタであることが、自分に有利に働くと考えていた。
1月6日に地元の地区会館で開催した最初の会議には、10名の友人知人が集まってくれた。学生時代の友人、元同僚、脱原発仲間、ネット上で知り合った友人などなど。そして、この会議で、生活者ネットワークの協力を得るべきという話になった。次の日にさっそく打診すると、その日の夕方に、推薦は無理との返事が返ってきた。あとから聞いた話では、あまりにも無謀なので、このような出馬は想像もつかないというのが本音だったようだ。その返事を、メーリス(※複数の人が同時に受信できるメールの仕組み)に流すと、立候補はやめた方がいいという強硬な意見があり、メーリスが荒れる展開になった。わたしは辞める気持ちはさらさらなく、強硬に辞めろと言った人は、すぐに去って行った。文字通り、Easy come easy go. すなわち簡単にやってきたものは簡単に去ってゆくのだった。しかも後ろ足で砂を掛けるように。。。「悪銭身につかず」ということわざが近いかもしれないが、もちろん、その方たちが悪い人たちというわけではない。基盤となるべき人間関係がないところで、イメージ先行でボランティア参加した人たちは、すなわち直感に従って行動しているわけで、その直感が狂ったと思えば去っていくのは当然だった。いわばお互いに裏切る関係になってしまったということなのだ。一つだけ注意しなければならないのは、この程度のことで、候補者になると決めた人間は、迷ってはいられないし、いちいち傷ついてもいられない。即座に立ち直るくらいでないと、立候補などできないだろう。立候補するには基本的に楽天家でなければ無理だろうと思う。ボランティアを辞めるのと候補者を辞めるのはわけがちがう。とにかく、この程度のことで、立候補を辞めるわけにはいかなかった。
捨てる神あれば拾う神というのもよく言ったものだと思うのだが、その翌日には、生活者ネットワークとしても、一緒に「原発」都民投票の署名を集めた仲間でもあり、放ってはおけないということで、実質支援するという連絡をいただいた。具体的には元市議だった方が、献身的に手伝ってくださり、現職市議の方も要所要所でアドバイスを下さった。要するに団体というのは一人の人間で構成されているわけではないので、それぞれの考えがあって、まとまらなかったけれども、放っておけないと思ってくれた方は何人かはいたのだった。
一方、この段階で説明書類すら手に入れていないのは立候補失格というお叱りを受けもした。そんな非常識な候補は応援に値しないとも言われた。もっとも、立候補の説明書類の方は、森てるお氏がまだ正式に辞任しておらず、辞任しない限りは補選があることも正式発表できないとのことで、書類自体が存在していなかった。わたし自身が非常識というよりも、状況自体が非常識な展開だったのだ。
ネガティブな意見が続く中で、都民投票の仲間でもあり、選挙に詳しい羽根田さん(仮名)が手伝ってくれることになった。彼は、ひとつでも多くの政党に推薦を貰えとアドバイスしてくれた。そのアイデアを受けて、わたしは「ミニ・オリーブの木」を作ることにした。そして、まったく時間がない中で、「生活の党」「日本未来の党」「緑の党」「緑の日本」の推薦を取り付けることに成功した。
「オリーブの木」というのは、選挙時に複数の野党が協力することにより、候補者を当選させるという構想であり、それを個人的につくってしまおうと考えたのだ。
「生活の党」は羽根田さんの口利きで、「日本未来の党」は先の衆院選に出馬した丸子安子さんの口利きで、「緑の党」はFacebook上でつながりのあったすぐろ奈緒さんに問合せ、それぞれ推薦を貰うことができた。「緑の日本」というのは、中沢新一さんとマエキタさんが中心になってできた政治団体で、こちらはマエキタさんに推薦をお願いした。当初からの脱原発仲間なので、二つ返事で推薦OKかと思いきや、条件があった。それは、「生物多様性」に関するレクチャーを30分受けることというものだった。その頃、金曜日の官邸前で見守り弁護団のサポートをしていたマエキタさんに、話を聞きに行った。ビオトープの話を聞いて、興味を持った。このレクチャーは、その後、政策をつくるのに役に立った。
ちなみに、打診したものの、推薦をしてもらえなかった党は、「みどりの風」、「社民党」、「みんなの党」である。
「みどりの風」は先にご縁ができた亀井静香氏を頼ろうとしたのだが、衆院選敗北のため傷心旅行中で、うまく調整がつかなかった。社民党は、直前にあった宇都宮健児さんの1回目の都知事選のときに、海渡雄一先生(福島みずほさんのパートナー)とのつながりができていたので、推薦をお願いしたのだった。が、海渡先生からみずほさん、そしてみずほさんから都連まではよかったのだが、都連から地元担当者に伝達された段階で、地元でのパイプがなかったために推薦が実現しなかった。社民党はどうやらトップダウンの組織ではないようで、当時党首であったみずほさんのご苦労が透けてみえた瞬間でもあった。みんなの党は、川田龍平さんが大学の後輩でもあり、議員会館に訪ねていった。川田さん本人は不在で、秘書の一人から、「社共と一緒の推薦はしない」と言われて帰ってきた。この時点で、川田龍平さんご自身は、山口あずさという無謀な選挙をしている人がいることは知っていたものの、その無謀な人が大学の同窓ということは認識していなかったらしい。また、公明党には、羽根田さんが何らかのアクセスをしてくれたようだった。推薦のお願いまではしていないと思うのだが、補選については自由投票であるという情報を聞き出してくれていた。
羽根田さんは、後から知ったのだけれども、いわゆる選挙ゴロだと陰で言われていた。しかし、わたしの素人集団の選挙がなんとかなったのは、彼のお蔭だった。ただ、市民ボランティアによる選挙という観点からは、相容れない要素もあって、この選挙以降、没交渉になってしまった。さんざんお世話になっておきながらの話なので、心が痛まないと言えば嘘になる。また「選挙ゴロ」という言葉を彼に使うべきなのかどうかも悩ましい。少なくとも、彼には、あくどいと思われるような要素はなかった。
自画自賛になるが、推薦をもらうための一連の作業を、ごく短期間で行った事務処理能力は、われながら立派なものだったと思う。当時、わたしの勤務先は有楽町にあり、会社の帰りに永田町で降りて議員会館に行き、交渉したのだった。羽根田さんのアイデアが元になった活動だった。
個人からの推薦としては、都知事選で応援した宇都宮健児さんと、地元で何度かお会いしている小児科医の山田真先生(子どもたちを放射能から守る全国小児科医ネットワーク代表)にお願いした。山口あずさへの推薦が、宇都宮さんが誰かを推薦する初めてのケースになった。また、山田先生は、電話をかけると「いいよ」とあまりにもあっさりと推薦してくださった。
わたしの選対会議の第2回目は、1月14日(成人の日)の昼間に行った。わたしの誕生日だったのだが、雪が降り、このときは羽根田さんと、都民投票のときの仲間の園山さん(仮名)が参加してくれた。インターネットが使える園山さんが、Facebookで、チラシポスティングとポスター貼りのボランティア募集の呼びかけをしてくれることになった。
この日、わたしはもう一人の都民投票の仲間である沢本さん(仮名)に選挙で使うさまざまな制作物についてSOSを出した。わたしはイラストレーターやフォトショップも扱えるので、制作物も自分でと考えていたが、さすがに時間がないと判断せざるを得なかった。
14日の夜には、高校の先輩でフォトグラファーでもある近藤さんに、チラシ用の写真を撮ってもらいに行った。雪の降った後で足元が悪い中を、東村山にある近藤さんの写真店に行って撮影し、その場でデータを貰って帰ってきた。あらゆることが、その場の思いつきだった。あれが必要ならこの人、これが必要ならこの人と、あちこちに電話をかけたりメールを出したりして協力を仰ぎ、即決していった。
翌々日の16日(水)にはチラシ原稿を入稿した。ネット上で安いところを探して、とりあえず配れそうな枚数をオーダーした。後から聞いた話では、選挙戦術的には地元の印刷所を使うべきだったようなのだが、わたしの選対には、そんな常識もなかったし、ケチケチ選挙としては、ネット上の最安値を探すのが現実的だった。地元で苦労している業者さんの事情を汲んでこその市議なのかもしれないが、とにかく時間がなかった。
チラシについては、エピソードがある。エラーチェックも兼ねて、最初の注文は5千枚にして、次の注文で、5万枚注文した。チラシ印刷の価格は、納品を急がせると割高になるので、とりあえずは当面必要な数を刷った。第2弾は、納品に余裕を持たせて大量に刷った。チラシ配布枚数の相場は、選挙区の世帯数の6~7割くらいと聞いていた。西東京市の世帯数は約9万世帯なので、その6割ほどを印刷したことになる。最初の注文と後の注文と併せて、約8万円かかった。選対に、1万枚を一人で撒いてもいいという女性がいて、彼女の自宅に1万枚届くように手配した。が、業者のミスで、予定の時間に届かず迷惑をかけたこともあり、その女性が怒ってしまった。彼女の怒りの理由は他にもあって、わたしが宇都宮健児さんの推薦を得たことが狡いと言うのだった。わたしは宇都宮さんの応援をしていたのだけれども、仕事をしていたこともあり、地元西東京市で目に見える形での応援はしていなかった。わたしは、「私が東京を変える」という選挙応援可能な市民グループを結成し、その代表になっていた。この団体は、『原発』都民投票の仲間が主体となっていた。都民投票を行ったグループは、その基本的な主張として、「原発を使うか使わないかを都民に決めさせて欲しい」ということを掲げており、これは、原発が賛成の人も、反対の人も、同じように一票を投ずることができるという主張だった。この原則から言って、脱原発統一候補である宇都宮健児さんを、会として応援するというのは無理があった。しかし、当然、『原発』に対して内なる反対意思を多くの人たちが抱いていたわけで、宇都宮健児さんの応援はどうしてもしたかったのだ。そこで、別の団体を結成することになった。こちらはこちらで、宇都宮健児さんが都知事になった暁には、住民投票にどのくらい賛同の意思を表明してもらうかという点で、大いに揉めて、わたしはフルタイムで働いていたにも関わらず、夜中に帰ってきてその日の経過をブログで発信し、3時に寝て、6時に起きて会社に行くというような状況に陥り、地元のポスティングに参加する余裕は全くなかった。地元で身を粉にしてポスティングやポスター貼りをしていた女性から見れば、「応援らしい応援をしていない」という印象だったのだろう。それなのに、一生懸命応援していた他の団体の押す候補を差し置いて、山口あずさの推薦に、宇都宮さんがなってくださったことについて、都知事選のときのボランティア仲間に申し訳ないと感じ、彼らに顔向けができないと彼女は感じてしまったのだった。論理必然とは言い難いが、人間の感情は論理などとはそもそも無関係であることが多く、彼女は、彼女なりの正義感に基づいて、1万枚のチラシをわたしに転送したのだった。こちらもEasy come easy go.だった。ショックだったし、第一、場所をとる1万枚のチラシの転送は迷惑でもあったのだけれども、候補者はそんなことでめげている場合ではなかった。立候補の前にはそのようなことは些事である。チラシのポスティングについては、他県から早朝車で来て、ポスティングしてくれた友人もいたが、さすがに5万枚のチラシを撒ききることはできず、選挙の始まる前日の朝刊に、予算が許す限りの枚数を入れて、結果的に、かなりの枚数を余らせることなった。
このチラシについては、もう一つエピソードがある。チラシを配布し始めてすぐに、現職市議からこのチラシは違法ではないかという連絡があった。ただでさえ忙しい中を選管に出かけて行って確認すると、違法性はないと言われた。悪気はないのかもしれないが、いろんな場面での、選挙違反じゃないかという俗説にも振り回された。幸い、ロースクールで法律の調べ方を習っていたので、本当のところはどうなのかを調べるスキルはあったが、総務省と、選管と、警察と、追求した結論があいまいで、明確な回答が得られないということもあった。公職選挙法は実におかしな法律である。けれども、こうして候補者になってみると、候補者がへんなお金の使い方をしなくて済む用に細心の注意が払われているという印象もあった。誰しもおいしいものは食べたいし、お酒も飲みたくなる。ダメだと明記していなければ、お金はいくらでもかけて欲しいということになりかねない。実際、ボランティアは「それくらいしてもらっても罰はあたらない」というような働きをしてくれるのだから、何が当然かというのは、線引きが難しいのだ。市民的ボランティアと、旧来の選挙ボランティアと、その中間と、ボランティア自身が常識と考えることもまちまちである。
また、チラシやらポスターやら、新聞折り込みやら、ボランティアの方から、これくらしなければダメと言われることもある。費用負担も含めて提案してくださる有難い方もいらっしゃるが、とにかく、お金をかけろという空気も生まれてくるのが選挙なのだ。わたしは恐ろしくけち臭い選挙をしていたのだけれども、支援してくださる方の好意で、部分的には派手にすることができたので、お金のある候補と思われた場面もあったかもしれない。
1月18日(金)になってようやく、西東京市選挙管理委員会による事前説明会が開催された。告示が27日(日)なので、どのくらいあわただしい選挙だったかがわかるだろう。通常であれば、2ヶ月前に開催されるものが、実に9日前の開催となった。当然、自分で聞きに行った。選挙に関することはすべて、候補者自身が把握しておく必要があった。独りよがりで立候補したつもりはなかったが、誰かに頼まれて立候補するわけでもなかった。最終責任者は候補者本人なのだ。要するに何か違法があれば、候補者本人が責任者であって、他の人を代わりにというわけにはいかないと考えていた。
19日(土)には、ポスター用の撮影をお寺の境内で行った。緑をバックにした方がいいとのことで、お寺の境内で近藤さんに撮ってもらった。この時には思いもよらなかったのだが、近藤さんは、この年の秋、享年54歳で急逝してしまった。Facebookの取持つ縁で、30年ぶりに高校時代の仲間と再会する機会があって、ほどなくして近藤さんに選挙でお世話になることになった。あれもこれも不思議なことのように思われる。葬儀の席で、わたしは近藤さんが撮ってくださったチラシを高校時代の友人に配ったのだった。
20日(日)は、前衆議院議員、渡辺浩一郎さん(生活の党)との面談だった。後で気づいたのだが、渡辺浩一郎さんは、母が生前応援していた方だった。母が亡くなって10年経って、まさか娘が応援してもらうことになるとは、亡き母も思ってもみなかっただろう。母が生きていた当時、わたしは選挙の応援に全く関心がなかったのだけれども、人と人とのめぐりあわせは不思議なものである。
土日は、とにかくフル稼働した。平日はフルタイムの仕事をしていたので、仕事が終わってから動き回った。どうしてもというときは、一日ないし半日の有給休暇を取った。
21日(月)に、書類審査があった。この日に間に合わない書類もあり、再度、審査の必要があった。
22日(火)には、選挙で使うタスキを入稿。こちらは沢本さんが作ってくれた。ネット上の入稿で、1万円もかからなかった。このタスキは、次の都議選も、その次の市議選にも流用した。
23日(水)に第3回会議を開催した。このときの参加者は5名だった。告示日のポスター掲示のため、ポスターをどうボランティアに配布するか、また、大まかな街宣ルートを決めた。この日、選挙カーの看板を発注した。安いところを紹介して貰ったので、5万円かからずにつくることができた。この看板も、ラミネート加工したポスターを貼るなどして、続く2回の選挙でも流用した。2015年の統一地方選では、裏面が活躍し、某区での知人の立候補に際し、お金のかからない選挙に役立てることができた。市民選挙は候補者同士、持ちつ持たれつなのだ。
街宣車は、緑の党に相談したところ、関西の方から電話があって、その方が紹介してくれたのは、顔見知りの都民投票の仲間だった。街宣車もどこかの業者から借りると公費負担の額では済まなかったが、個人所有の選挙カーを公費負担の金額で貸してもらうことができた。幸運だった。
24日(木)は、午前中に車の事前審査があって、午後は、供託金30万円を納めに府中法務局に行った。わたしはここで、とんでもないミスをした。自分の住所を書き間違えたのだ。今までの人生で、あり得ないことだった。あれをしてこれをしてと、混乱していたことの現れだった。府中法務局は駅から離れたところにある。供託金を納めろと指定されている銀行は駅前にあって、法務局で手続きをし、駅前の銀行に戻ったところで気が付いた。また、法務局に戻って書類を書き直し、銀行の閉店に間に合わなくなって、近くの郵便局で納められることを教えて貰った。最初から近くの郵便局で納められることを教えてくれてもよさそうなのに、不親切な話だ。わたしは、最初の選挙だけは、府中で供託金を納めたが、その後の選挙では、九段にある東京法務局でお金を納めることにした。こちらの方が、書類の提出と、お金の支払いが一か所で済むのだ。距離ということでいえば、府中の方が近いのだろうけれども、交通の便は圧倒的に九段の方が便利だった。
25日(金)には、選挙ハガキの入稿をした。市議選は2000枚のハガキを公費で出すことができる。印刷費と住所ラベルを合わせて1万円ほどだった。ちなみに、このラベルは普通の住所シールでは大きすぎる。選挙で使うハガキは、「選挙」という消印が押され、郵便代はかからないのだが、この消印を押すスペースには何も記載してはならず、住所シールがはみ出すことも許されない。ちょうどいいシールはないかと探して、バーコード用のラベル(38.1mm×21.2mm)がちょうどいいことがわかった。手書きにすべきという意見もあるが、ボランティアがいて、時間が間に合えばの話である。猫の手も借りたい弱小選挙チームは、ラベルシートを使う方が現実的なのだ。
この日の夜は、官邸前で見守り弁護団のサポートをしているマエキタさんに会いに行った。ここで、「緑の日本」の推薦を受けるため、30分間、「生物多様性」に関するレクチャーを受けた。
26日(土)、選挙の前日に選挙公報の原稿ができあがり、月曜の事前審査に間に合わなかった書類をこの日に追加審査してもらった。これで一段落と思ったのだが、選挙公報に掲載させる写真が、きちんと肩が入っていないと言われ、写真のプリントのやり直しになった。どうでもよさそうなことなのだが、この手のルールについては、全く融通が利かなかった。この日の夕方、公示掲示板に貼るポスターをボランティアに配布し、夜中に、プリントしなおした写真を近藤さんにとどけていただいた。思い返せば、風邪をひいて体調の悪い中、夜中にバイクを飛ばして来てくれたのだった。
27日(日)の告示日は、候補者自ら手続きに行った。第一声はどちらで?と警察に聞かれたが、きちんとした計画も立てられないままだった。森しんいちさんのところに大河原まさこさんが応援に来ているのを横目で見ながら、初日は派手なことは何もできずじまいだった。
それでも、推薦をしてくれた党はそれぞれ応援に入ってくれた。生活の党からは渡辺浩一郎さん(前衆議院議員)が2度にわたり、また、日本未来の党からは阿部知子代表(衆議院議員)が、緑の党からは小平市議の村松まさみさんに来ていただいた。最終日には脱原発仲間である緑の日本代表、マエキタミヤコさんと元アイドルのチバレイこと、千葉麗子さんが来てくださって、田無駅頭と、ひばりヶ丘駅頭で賑やかな応援をしてくれた。田無駅南口では賑やかすぎて、いい加減にしてくれないかと酔客に言われるほどだった。
選挙カーの運転も、入れ代わり立ち代わり、友人知人が手伝ってくれた。選挙に多少の心得のある人は、ここで演説しろ、あそこで演説しろと、アドバイスもしてくれて、ロールプレイイングゲームのキャラクターのように、言われるがまま、誰もいない団地の公園で演説をした。ある場所では、子どもが3人、きょとんと見上げていた。なぜか同時に飽きたようで、お互いに誘い合うということでもなく、一斉に立ち去って行った。とにかく有権者と握手をしろとも言われたが、握手の手がなかなか出ず、そのたびに注意された。
1議席をめぐって、4名が立候補した選挙だった。共産党の候補(朝倉文男さん)以外は無所属だったが、一人は元民主党の森しんいちさんで前回の選挙に落選した前市議だった。前回の西東京市議選では、民主党は7人の候補を立て、3人しか当選しなかった。残りの4人は票を分け合っての共倒れとなっていた。
もう一人は、聞くところによればだが、自民党から立候補したかったのだが、元職と新人とどちらを出すかでもめて、自民党として出馬することができず、保守系無所属として出馬することになった、たきしま喜重さんだった。この保守系無所属候補に投票したくなかった人たちの票の受け皿に、山口あずさがなったため、次点という結果になったというのが、選挙が終わってからの分析である。要するに、自民党候補が出ていれば投票したかったが、自分の押す候補ではない保守系無所属の候補には投票したくない有権者が相当数いて、この人たちは、共産党に投票することはあり得ず、また、元々民主党で民主党の応援を全面的に受けている候補に投票することもあり得なかった。公明党も自由投票だった。したがって、選挙を棄権しないとすれば、山口あずさに投票した可能性が高い。選挙がまさに水ものであって、その水が少なからずじぶんに有利に働いたケースだった。
ちなみにこのとき、西東京市議会では、前回、2010年の選挙の時に当選した公明党市議の一人が、定例会に2回出席したのみで長く病欠しているという事情があった。もし、この欠席議員が補選前に辞任していれば、補選で選ばれるべき議席数は2になっていたはずなのだが、彼が辞任したのは、補選の後だった。市議会のパワーバランスの計算上のことだったのか、病気療養中の市議の生活費のためだったのか、理由はよくわからない。公明党は西東京市議に6議席を得ていたが、次の選挙では5人しか立候補しなかった。いずれにせよ、それもこれもめぐりあわせだった。
2月3日の投票日まではあっと言う間だった。開票結果を一人で聞くのは可哀そうだと、応援してくれたボランティアのみなさんが自宅に集まってくれた。FM西東京の報ずる選挙の得票数に耳を傾けながら、最後まで期待をもって聞いていたのだけれども、わたしは12,626票を獲得し、次点の結果に終わった。
当選したのは、森しんいち候補だった。恐らく、彼は補選があれば出たいと考えて準備をしていたのではないかと思われる。また、この選挙で名前を売った、たきしま喜重さんは、2014年末の選挙では次世代の党で立候補し、当選したのだった。