公民館運営審議会

昨日、公民館運営審議会(略称:公運審)を傍聴しました。
友人が誘ってくれて、興味があったので、ご一緒することにしたのです。
これまでの会議を知らないのですが、館長が変わって、会議の内容がよかったと聞きました。
資料はお持ち帰り不可だったのですが、各公民館の企画はとてもユニークで参加してみたいものがたくさんありました。

公民館が抱える課題として、「受益者負担」を声高に言う人たちに、どう対応していくかなのだとの発言がありました。だいぶ以前のことですが、維新系の方がそのような発言をするのを聞いて、強い違和感を感じたのを覚えています。簡単に反論できそうで、なかなか難しいと感じましたが、爾来、つらつら考えていて、社会教育は個々人の受益に留まらないので、受益者負担という発想は間違いだと言えばいいのだと思い至りました。要するに、受益するのが社会そのものなので、社会的に負担することになんの問題もないわけです。すなわち、公民館で行われるさまざまな学習の中で、個人が得た知識は、その個人に留まるわけではなく、社会の基礎を形作るのです。

極端な例えですが、小学校が義務教育でなかったら、子どもを学校に行かせない親は出てくるでしょう。子どもを学校に行かせたい親だけが行かせればいいと誰も言わないのは、子どもたちが基礎的な学力を身に着けることが、その子だけではなく、社会にとっても必要だからなのです。もっと言えば、中学校程度の学力が身についていない大人は大勢いますが、それでは受益者負担で中学の義務教育は辞めようという話なるでしょうか。社会全体が貧しくなるのは自明のことです。

学びは個人を形成しますが、同時に社会も形成します。公の学習の場が無償解放されることの意義は大きく、大人も、学ぶ機会を得ることによって、社会は豊かになっていきます。

わたし自身、3.11前は、公民館の学習会に参加する習慣はありませんでしたが、3.11以降は、公民館のヘビーユーザーになりました。

個人は変わります。変化が訪れたときに学びの場があることは大切です。
お金にしか価値が見いだせない貧困な大人には、見えないものがあるのでしょう。つまらない価値観に囚われた囚人との闘いなのだと思います。

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