人質事件とプラスチック的感性と熱狂への恐れ

じぶんのブログが後回しになってしまう。
今週は、参議院議員会館に月、水と通い、火曜日は早稲田大学の小野記念講堂に行った。
月曜日が「公職選挙法と選挙制度を考える。」
火曜日が「パク・ウォンス ソウル市長 公開講演会」
水曜日が「私たちは人質事件をどう考えるか」

それぞれちゃんとまとめるべきなのだが、他にやらないとならないことがあるので、関心のある方はわたしのメモ的なツィッターを見て欲しい。
https://twitter.com/Rollienne

ところで、人質事件が起こったときに、クソコラというのが流れてきた。
深刻かつ残酷な画像を、ちゃかして、ナイフをバナナにという例のコラージュ。
大量に送りつけられて、ISISも対応に苦慮しているらしいというコメントもあった。
素直におもしろがっている人もいたのかもしれないが、通常ならパロディ好きのわたしは、どうにも気味の悪さと居心地の悪さを感じていた。

9.11のあと、PEACEDESIGN.JPというサイトを立ち上げて、活動しようとしたことがある。
ネット上で知り合った3人組で立ち上げたのだけれども、まぁ、たいしたことはできないままに、閉じてしまった。
この掲示板に、ネトウヨが大量に書き込みをしたことがあった。
母が亡くなった直後だったので、牧歌的にその話を書いてしまったところ、「山口の母、天国より」というような書き込みが多数なされ、正直、具合が悪くなった。
書き込みをしているのは、若い人というか、わたしから見れば子どもなのではないかと思ったが、どうにも耐え難く、掲示板を見るのを辞めてしまった。
こちらが人間的なことばで、情緒的に訴えようとしても、まったく通じなかった。
プラスチックのつるつるとした感性の前で、すべてが上滑り。
ISISのナイフをバナナに持ち替えてコラージュにすること。
面白いと思おうと思えば、おもしろくないこともないのだが、これが有効に機能するとは考えにくい。ISISがばかばかしいからこんな真似を辞めよう!と、思ってくれるわけがないのだ。
「人を殺してみたかった」という理由で、人を殺してしまうという環境に住んでいるわたしたちにとって、忌まわしい死は日常には存在しない(ように見える)。
一方、ISISのいる世界には死が日常なのだ。
なぜ、こんな残虐なことをとみな不思議がっているが、彼らが発明したわけではない。
昨日の議員会館の集会で、イラクの民兵がやってきたことは、さながらホラー映画のようだったと志葉玲さんが言っていた。となると、ISISの残虐な行為は、じぶんたちがされたことをしているだけなのだ。
国際社会に向かって、実に効果的にプロパガンダしている。
同じ目に遭うことによって、何かに気づいて欲しいと思っているのかもしれない。
想像を絶する残虐さは、少なくともISISの発明ではないようだ。

ところで、安倍政権は、さっそく、憲法9条を変えましょうと言い出した。
人質の命を心配していたのではなく、この事件をどう憲法改正に結びつけるかに腐心していたことが透けて見える。
このプロパガンダに、日本人は踊らされるのだろうか?
後藤健二さんの活動に感動し、後藤さんのついでに哀悼の意を表しつつも、湯川遥菜さんの活動に内心冷ややかな感情を抱いているわたしたち日本人は、人質が湯川さんだけだったなら、あの便利な「自己責任」という言葉で済ませることに、躊躇しなかったかもしれない。
後藤さんの尊い命があって初めて「憲法改正」へのプロパガンダが可能になるのじゃないか?
そして、後藤さんが決して望まないであろう選択を、政府は推し進めようとしている。

プラスチック的感性の持ち主がどのような人間か、一方でプラスチックのように鈍感でありながら、一方で、美しき戦いに熱狂するのだろか。

わたしたち日本人は、いまだに、12月14日には、忠臣蔵の討ち入りに感涙し、切腹を愛している。
「生きて虜囚の辱めを受け」ないように、人質になった時には「自己責任」をまっとうし、強い兵士として死を恐れず、戦地に赴くつもりなのだろうか。

美しく戦うことは、人類を滅亡させる。

原爆を体験したことの意味を感じ取れない人がどうして大勢いるのか。

なぜ、安倍が総理大臣なのか。

わたしには、わからない。

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