【映画】ハンナ・アーレント

わたしはいわゆるロードショーはほとんど見に行かないのだが、単館系でどうしても見なければという使命感にかられて映画館に足を運ぶことがある。昨日は、1000円で見られる日でもあったので、下高井戸まで映画を見に行ってきた。映画については、下記の記事が詳しく紹介している。

映画『ハンナ・アーレント』どこがどう面白いのか 中高年が殺到!
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/37699

映画のオフィシャルサイト
http://www.cetera.co.jp/h_arendt/

ハンナ・アーレント、ハイデガーの彼女だったと記憶していた。(そんなことばかり記憶していて我ながら俗っぽいけれども)
アイヒマンのドキュメンタリー映画も見ていたが、とにかく、この映画は気になっていた。
この映画を見て泣くことは予想していなかったのだけれども、最後のクライマックス、アーレントの講義の場面で、涙が止まらなくなった。わたしはどうやら哲学に情緒で反応してしまう質のようだ。
ネット検索したところ、アイヒマンの裁判のドキュメンタリー映画は1999年制作とある。この映画で記憶しているのは、アイヒマンが血の噴水を見たと述べるくだりだ。じぶんが原因を作っているという自覚はまったくなく、多くの人間を埋めると地面から血が噴き出すことに第三者的な驚きを語っていた。わたしは地面から血が噴き出すということと、アイヒマンの第三者ぶりに同じくらい衝撃を受けた。「お前のせいだろ!」とキレることはむしろ簡単で、アーレントがまさに指摘したように、凡庸な人間が凡庸さの内にありながら時代の狂気に巻き込まれたときに、たんたんと狂気の歯車になる様に言葉を失った。
3.11が起きて原発政策の異様さを日々まのあたりにし、誰一人責任をとらない、端的に言って、加害者側がだれひとり自殺しないことに、わたしは気味の悪さを覚えている。ロッキード事件とかリクルートとかでは自殺した人が現れた。比較するのは変なのかもしれないけれども、また、贈賄事件で自殺した人たちは加害の意識に苦しんで亡くなったわけではないのかもしれないけれども、責任をとらなければならない人がどうやら存在しないことに空恐ろしさを覚えるのだ。罪深さという意味においては贈収賄の比較ではないだろうに。
過去の過ちについて、現在責任をとらないのであるから、未来に過ちという帰結になるかもしれない事項において、気付かないふりをするのは、簡単だろう。「総理大臣の責任において」と総理大臣が言うときに、責任をとった総理大臣の図を思い浮かべることができない。アイヒマンの凡庸さにまるで支配されているかのようだ。
「食べて応援」がもしかすると罪深いことかもしれないと言えば、「風評被害」という正義に駆逐されるのか。
スーパーに閉店間際にゆけば、北海道産の牛乳だけが売り切れているが、それを指摘すれば風評被害を招くのかもしれない。風評を広げないようにして、じぶんだけ、北海道産の牛乳以外は飲まないことにするのが生活の知恵ならば、わたしもまたアイヒマンの凡庸を生きているのだろう。

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