西東京市平和の日

4月12日は、西東京市平和の日である。
この日が、西東京市平和の日であることを、去年まで知らずにいた。
わたしは小学校3年生の一時期と、小学校6年生の2学期から卒業までを向台小学校で過ごしたのだけれども、西東京市で小学校1年生から過ごしていれば、あるいはこの日のことを学校で習ったのではないかと思われる。残念ながら、中学校ではそのような話は出てこなかった(ような気がする)。その頃はまだ西東京市ではなく、田無市だったけれども、1945年4月12日に、田無駅北口周辺に爆弾が投下され、多くの人が亡くなったという話を、わたしは習った覚えがなかった。
下記は、今日の11時半から総持寺で行われた慰霊祭である。
市長の挨拶があり、衆議院議員の挨拶も予定されていたようだが、公務で欠席とのことで、秘書さんが代読された。市議も何人か臨席していた。都議は来ていないようだった。
白いカーネーションが一輪ずつ配布され、わたしも献花をし、お焼香をしてきた。
素直な慰霊に対しては、わたしも素直な気持ちになる。
靖国イデオロギーに接すると頭がぐちゃぐちゃする。
要するにゲシュタルトが簡単に反転してしまうことが恐ろしいのだ。
お焼香をしながら「ゲシュタルトが反転しませんように」と、お祈りしてきた。
意味がわからないかもしれないが、わたしなりの反戦の誓いなのだ。
英霊と言ってほめたたえるのには抵抗がある。ほめたたえるだと、反戦にならなくなってしまう。繰り返しになるが、わたしは、ごく素直な慰霊をしたいと思う。いちいち理屈っぽくて、怒られそうだけれども、わたしは英霊とたたえることは恐ろしいのだ。国がおかしな政策をとったことで、むちゃな勇気を示さねばならなくなった人たちに、同情したいという気持ちは大いにある。しかし、子どもたちに憧れてもらいたいとは思わない。血を流せば痛いということについて、わたしも想像が及ぶ。だから、流れた血を悼みたい。同じ歴史を歩むべきではないと思う。
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アスタ2階センターコートでは、昨日から2日間イベントがあり、こちらも参加してきた。
きょうのイベントでは、87歳になるという濱野敏郎さんが、当時の体験を語ってくださった。
当時、海軍に志願されていて9月から入隊予定で、予備訓練を受けていたところ、空襲になり、自宅に戻るようにと言われ、惨状を目撃することになったという。
人工呼吸というのをはじめてしたと、濱野さんはおっしゃった。
死ぬときに、人は舌が丸まって喉の奥に入り、呼吸ができなくなるので、この舌を箸でつまんで引き出して、人工呼吸を行ったという。凄惨な光景だったと語られた。
鉄筋でできた立派な防空壕に爆弾が落ちて、防空壕ごと反転してしまい掘り出すことが困難を極め、中に37人いて、1人しか助からなかった。
田無の駅前で起こったできごとだった。
すっかり顔見知りになった市職員の方が、地図を見ながら、ちょうどこのビルの建っているあたりですよと、教えてくださった。
西東京市に住んで何年になるのか。
地元の佐々病院で生まれて、ずっと母の実家は田無にあって、12歳からはその家で暮らしている。
平和教育と繰り返し言いながら、学校はわたしに何を教えてくれたのだろう。
中島飛行機という軍事上の重要拠点があり、ここを狙った空襲が、東京の空襲のはじまりだったという。
長崎に落とされたのと同じ形の爆弾(模擬原爆)が、柳沢に落とされたことを、なぜ、わたしはついこの間まで、知らなかったのだろう。
戦争の思い出が、これほど身近にあったとは!
アスタセンターホールで毎年行われているイベントで、戦争の実体験を語って貰ったのは、今年が初めてだったという。
貴重なお話を聞くことができた。今年は、終戦から70年。戦争の記憶が、実は、生々しいものであることを、思い知らされる一日になった。

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