地元で知り合った方から、とても高価な本をずっと借りたままになっている。
中村天風著「成功の実現」
豪快な本で、難解なわけではないのだけれども、雑事に追われ、自らはじめてしまった「資本論」の読書会優先で、少し読んでは中断しを繰り返している。
その一節。。。
「せっかく俺が買ってきたのにうれしくねえのか」
「うれしいわよ」
「うれしかったら笑ったらどうだい」
「あさって笑うわよ」
こんな会話が実際にあるかどうかは分からないけれども、わたしもものすごくうれしかったのにうれしいというのを表現しそびれた覚えがある。どれほどうれしいかと他の人に自慢話はしたのだが、そのうれしいの原因をつくってくれた人には、喜びが伝わっていたのかどうかおぼつかない。
母を亡くしたときに、香典返しを何にしようかと迷い、母の短歌とわたしの俳句で本をつくった。
その冒頭に、まどみちおの詩を引用した。
母ヤギからきた手紙を 子ヤギはメェメェ食べながら
ごはんじゃなくてお手紙も くれればいいのに母さんは
ピンと来た人もおられるだろう。この詩はあの有名な動揺の原形なのだ。まどみちおさんは当初、母子のコミュニケーションを題材にして書いた詩を、友だち同士に変えて、どうどうめぐりのあの歌ができあがったのだ。
くろやぎさんから おてがみついた
しろやぎさんたら よまずんじたべた
しかたがないから おてがみかいた
さっきのおてがみ ごようじなあに
この歌は終わらない。
この歌は永遠につづくのだ。
しろやぎさんとくろやぎさんは、さっきのおてがみごようじなあにと、お互いにお互いを気に掛けながら、その友情は永遠。
いいのだ。用事などなんでも。じっさい、「ごようじなあに」としか書いていないのだし、最初のようじがなんだったかなど、おぼえちゃいないだろう。
ただ、まぁ、うれしいというのを、他の人にじまんするくらいなら、うれしいとちゃんと表現すべきであったなぁとは思う。いつまでたっても大人げないままで、人は年をとる。