象徴天皇制の象徴するものは国家の倫理である -山本太郎議員支持の表明に変えて

象徴天皇制について、勉強したくなり、久しぶりに教科書を開いてみた。
象徴天皇制における天皇は、国民の儀礼の単なる対象ではなく、国民の倫理の体現者であると考える。国家の倫理がゆらぐとき、その地位を国民の総意に基づいている天皇は、倫理の体現を迫られる。
少なくとも、山本太郎議員の行為を、単なる儀礼の問題として捉えるのは失当である。
天皇は、今、わたしたち国民に国家倫理の体現者として必要とされている。
わたしたちは、今こそ、倫理的でなければ、自らの生存が脅かされると感じている。
福島は「ブロックされている」か否かという言葉遊びの問題ではなく、放射能汚染はわたしたちが直面している共通の問題であって、棚上げにすることはできない。被ばくは日々の問題であって、先送りにすることができない。経済の仕組みに翻弄され、経済を優先することが、わたしたちの命を明らかに脅かしている。
わたしは、山本太郎議員を支持する。
下記、憲法の教科書の重要と思われる個所をそのまま紹介する。(尾高は、尾高朝雄、東大法哲学教授だった。)

「憲法 I」(有斐閣 野中俊彦・中村睦夫・高橋和之・高見勝利 著)より

尾高によれば、新憲法は国民主権主義を採用して民主主義の実現をめざしている。しかし、「民主主義は、それ自体の本質においては『人類普遍の原理』であるが、その実現される具体的な形は、時代の相違や民族の特殊性に応じて色々と相貌をことにしたものなって現れる」ものであり、日本においても民族の歴史的伝統と調和しなければならない。そうでなければ、民族の歴史的伝統からの反動を呼び起こし、革新そのものが不成功に終わることになろう。そこで、新憲法が同時に採用した革新の要素と伝統の要素、すなわち、国民主権主義と天皇制を調和させることこそ、新憲法をめぐる解釈論上の最大の問題であり、その解釈に際して取るべき根本態度は「変革のもつ変革としての意義を十分に明らかにしつつ、その間に、変わっても変わることのない一貫した精神のつながりの存することを把握する」ということでなければならない。ところで、国体が変革したと主張する者は、天皇主権から国民主権への変更をいう。しかし、その場合に、国家には主権と呼ばれる最高の政治権力があって、その権力は君主に帰属するか、国民に淵源するかのいずれかであるという前提が置かれているが、かかる前提には疑問がある。主権を国家における最高の政治権力と考える見解は、法と力の関係において「力は法なり」を認めることに帰着する。主権者はいかなる内容の法を定めることも自由とされるのである。しかし、かかる見解は今や克服されねばならない。いかなる力にも超えてはならない矩がある。それがノモス(法の理念)である。主権者とされる者も法の理念には従わねばならない。ゆえに、国家において最高の権威をもつものを主権と呼ぶならば、主権はノモスにあるというべきである。国民主権にいう主権とは、具体的なノモスのあり方を最終的に決定しうる力を意味するのではない。それは、具体的な国法の内容をノモスの根本理念に従って決定していくべき責任を意味する。明治憲法の天皇の統治においては、そのような責任が天皇にあった。日本国憲法の国民主権においては、そのような責任が国民にある。しかし、天皇の統治も国民の主権もノモスを政治の最高原理とする点で違いはない。違いはそれを実現する方法にあるにすぎない。国体とは理念としての政治の根本のあり方を意味するが、その理念が天皇統治においても国民主権においても同じであるとすれば、「国体の変革」などと大騒ぎする必要はない。ところで、国民主権に基づく政治は、現実には多数決の政治とならざるをえない。しかし、いかなる多数も何ごとをもなしうる絶対の力ではなくて、正しい政治の理念には従わねばならず、そのような多数の意志が国民主権主義の下で「国民の総意」、国民全体の意志と意味づけられるのである。そして、この「国民の総意」を象徴するのが天皇である。日本の伝統によれば、天皇は「常に正しい統治の理念」を具象化してきた。その天皇の立場を純化したものが「象徴としての天皇」である。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA