2023年4月6日、さいたま訴訟の控訴審判決が東京高裁で言い渡されました。
わたしを誰だと思っているのでしょう?
主権者であるわたしを。
わたしは東京の国賠訴訟の原告で、さいたま訴訟でだされた判決の原告ではないですが、わたしは誰?という疑問が、判決文を読んでいて浮かんできました。
判決は、
「平和」とは、理念ないし目的としての抽象概念であり、憲法9条の存在を前提としても、「平和」をいかにして実現するか、すなわち、憲法の効力の及ばない諸外国等との関係において、刻々と変動する世界情勢を踏まえ、平和に対する脅威をどのように認識してこれにどのように対処するのか、平和を維持するために何をすべきかについては、多種、多様な手段、方法が考えられるのであり、それらは各人の信条、信念、世界観などとももあいまって、一義的には定まらないものである。
と書いていました。こんなセリフを吐かせるために、三権分立の権力の一つとして裁判所を、わたしたち主権者は掲げているのでしょうか。
いろんな考えがあるでしょうと、今話題の放送法をないがしろにして世論を牛耳りたかった政権と、この司法の奇妙に平坦な戯言は、よく似ています。
わたしは日本国の主権者です。
どういう主権者かと言うと、「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し」た主権者なのです。なぜ、そんな決意をしたのでしょうか。実に簡単な理由です。政府の行為によって、戦争の惨禍が実際に起こったからです。
裁判所は、憲法9条についても書いています。
憲法9条は、国の統治機構ないし統治活動についての規範を定めたものであって、国民の権利を直接保障したものではない
憲法9条こそ、どのように平和を護るかが書いてあるわけで、あなたが先ほど言った、平和を護るための多種多様な手段、方法を制限しているのです。何も難しいことじゃない。ごく素直に読めばいいだけです。いったい、裁判所は何を言っているのか?国民の権利を直接保障したものではない?頓珍漢にもほどがあります。これをもう一度読んでみてください。
第二章 戦争の放棄
〔戦争の放棄と戦力及び交戦権の否認〕
第九条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
翌、4月7日、山梨訴訟の控訴審の証人尋問が行われました。宣誓をして証言台に立ったのは、長谷部恭男教授です。
この方です!
長谷部教授は「戦争と法」という著作もあり、研究テーマの一つであると紹介され、まず憲法9条の思想史的な意味から証言されました。
下記は、裁判の当日のメモからです。
違憲判決を出すことが、この国の未来のためです。走り書きのメモをまとめたものですが、公開します。
長谷部恭男教授証人尋問
憲法9条は思想史てきには1928年の不戦条約から来ている。
それまではグロティウスの考えが主流で、「正当な根拠なくして戦争はできない」とされていたが、双方が正当性を主張し、結局、決闘で決着をつけることになった。ようするに戦争でどちらが勝つかということ。正義が勝つとは限らず、必然的に軍拡競争になった。
不戦条約は戦争をしないということ。9条1項、そして2項は、戦力不保持すなわち、戦争遂行能力を否定した。
もっとも、我が国が武力攻撃を受けたときの場合の自衛権は否定していない。
日本政府に武力の行使を認めることはできないが、正当な理由があれば最低限度での個別的自衛権を認める。これは条文自体では決着がつかないので、有権解釈がなされてきた。基本権に関する有権解釈は、最高裁によってはなされていないので、この穴を埋めてきたのが内閣法制局だった。
7.1閣議決定までは変更されずにきた。
1972年(昭和47年)に出された政府見解で、日本が武力攻撃を受けた場合の個別的自衛権のみ認められる。集団的自衛権の行使はできないとされてきた。
7.1閣議決定により、旧三要件は新三要件に変更された。
安保法制は、集団的自衛権を認めている限りで違憲である。
従前の解釈では、他国が武力攻撃を受けたときに武力攻撃をすることはできないとされてきた。
安倍晋三氏と山口那津男氏の意見も対立し、安保法制法は、論理的解釈も欠け、法的安定性にも欠けている。
個別的自衛権と集団的自衛権は本質的に異なる。集団的自衛権は他国への加勢である。
武力行使に関する基準がなく、これはつまるところ、法がないということ。
ミサイルはどこに飛ぶのか分からず、我が国が攻撃されるのかどうかは、ミサイルが飛んでみないと分からない。これに対して、ジェットエンジンで飛ぶトマホークを使うと言うのでは、合理的な論理が成り立たない。
法がない状態であり、諸外国から見て、日本の武力攻撃は予測ができない。したがって、偶発的な武力衝突が起こる可能性がある。
これまでの判例で、中曽根政権時代の靖国神社の公式参拝に関するものがあるが、今までNoだったものをYesとしたのは、安保法制法が始めて。
武力行使については、これまで一貫して個別的自衛権しか認めてこなかった。自衛隊の活動については、常に出発点はゼロで、ポジティブリストの積み重ねであり、その都度憲法解釈が変わったわけではない。
米国との関係では、米国憲法第1条で、戦争を宣言するには議会の承認が必要とされている。これまでに、5回、承認されているが、議会の承認が必要であることからも、米国が日本を必ず助けてくれるという可能性はない。
抑止力については、太平洋戦争開戦時、米国は抑止力を高めるためにパールハーバーに軍艦を集めていて、裏目にでた。日本は真逆の対応をしたということであり、抑止力が抑止になるとは限らない。
2015年6月4日に、三名の憲法学者は、安保法制法を違憲だとしたが、7.1閣議決定時に違憲性は明確だった。
裁判所は、具体的な危険の発生が必要だと主張しているようだが、本件で具体的な危険が発生したら手遅れになる。予防原則に基づき、違憲性を認めるべきである。
予防原則の適用例としては、水俣病に関する判決と、最近ではコロナ下の制限が挙げられる。制限をとらなければ確実に被害がでるかどうかは定かではないが、制限した。
自衛権について、武力発生の基準がなくなった。したがって、具体的な危険の予測が困難になった。
憲法改正決定権については、侵害は明白である。憲法96条の有権解釈を無理やり変更して国民の投票する権利を侵害している。これは投票を経ずに国会議員を選出したり、国民審査を経ずに最高裁判所の裁判官の継続を認めるのと同じである。
代表民主制は、立憲主義の核心部分については、譲らなければならない。違憲審査は理のあるdisagreementである。
本件における違憲審査は、集団的自衛権を認めている範囲で違憲であり、7.1閣議決定の前に戻らなければならない。reasonable agreementの範囲に収まることが立憲主義の要請である。
イギリスの近年の判例に、ミラー対プライムミニスターがある。ミラーは一般人だが、ジョンソン首相による国会閉会を無効との判決を得ている。
日本の裁判所は、国際的にみて、突出して消極的だとされ、研究対象になっている。