夕方のNHKを視聴していたところ、両親が離婚し、一緒に住んでいない親に会えないとか、父親の話をすると母親が機嫌が悪くなるとかの話を放映していて、わが身の特殊ケースを紹介してみようという気持ちになりました。
ご参考までに、書いてみます。
わたしは生まれたとたんに両親が諍いをはじめ、兄の親権を巡って裁判沙汰にもなり、1歳で離婚成立という過激な生い立ちなのですが、じぶん自身はあまりに小さかったので、両親の喧嘩を記憶していなく、幼い頃のわたしは祖父の膝の上で、祖父の絶対の後ろ盾を疑うこともなく、この家(母の実家)の中心は自分であると言う幻想の元に育ちました。
長じてから友人のようになった異母妹が言うには、「あーちゃんは大人の配慮がある育ち方をしている」とのことで、それは確かにそうだっただろうと思います。
わたしの中には、結婚離婚に関する偏見が皆無なのです。
つい先日、学童のバイトをしたのですが、某小1が、「結婚してないの?」「子どもも生んでないの?」と聞くのです。
「そうだよ」と答えましたが、6歳のオリジナルな発想による問いかけとも思えず、誰かに植え付けられた考えがあるのだと感じました。
わたしの生い立ちは、そのような価値から完全に保護されていたように思います。
つまり、いじけた子どもになってもらったら困るという配慮が、結婚の大いなる価値を幼子に吹き込むということをしなかったのです。
その代わりに、明治生まれの祖父母は恋愛結婚だったそうで、祖母は幼児だったわたしに、「おじいちゃんとおばあちゃんは恋愛結婚だったのよ」と言い続け、少し大人になった孫に祖母が言うには、じぶんのお姉さんが重い病気になったことがあって、そのとき、見合いの結婚相手が決まっていて、もしお姉さんに何かあったら、代わりにその家に嫁に行けと言われたどうしようかと思っていたと言ったりしました。
というわけで、わたしは結婚の価値ではなく、なんだかよくわからない「恋愛」というものが重要らしいと言う価値観を持つことになりました。
それが理由で結婚しなかったわけでもないのですが、恋愛を犠牲にして結婚しようという発想はじぶんの中には皆無だったのは確かです。
さて、NHKの特集にあるような離婚後の父との面会ですが、父に遊んで貰った記憶もなく、父に会いたいという発想はわたしの中にはなく、また、父がいないということについては、わたしには、世間一般の父よりも一段格上の祖父がおり、その存在の大きさによって、わたしは何ら不足を感じることもなかったのです。
住まいが近かったわけでもなかったので、幼児の頃に父に会った記憶があり、その後、小学生の頃にも会った記憶があり、それは決して頻繁ではなく、ぽろっと会う機会があって、父という生き物がいることを認識はしていたのですが、父に対する感情というのが、じぶんにはよくわからず、大学入学の際にスポンサーにはなってくれて、そのときはとくに有難いとも思っていなかったのですが、ロースクールに行きたくなってしまったときに、とりあえず自分が大卒であったので、行こうと思えばすぐにローに入ることができることについて、感謝する気持ちになり、父にお礼をいったところ、お礼を言われた父は、驚いた顔をしていました。
わたしには、兄弟姉妹がすべているのですが、その誰とも一緒に育っていなくて、繁殖力の強い個体であった父に、他の兄弟と一緒に会うのは落ち着かず、会うのであれば、一人で会わないと、なんだかしっくりこない印象もありました。
その父もこの春、亡くなったのですが、思いの外ショックを感じていて、ネット上に何も書かずにいました。
葬儀のときに、異母姉とも会ったのですが、みんなで話していて、この姉のお母さんが父のことを一番好きだったのではないかと思いました。
姉は、その母親から聞いた父の学生時代の青春の思い出を語ったのですが、美しい思い出のようで、不思議な印象を持ちました。
姉の母親は、父の悪口を言ったことがないそうで、わたしの母は父の悪口も言っていましたが、批判と称賛をバランスよく語るようにしていたそうで、なぜかというと、子どもがじぶんの父親を劣った人間だと思って育つのはいかがなものかと思っていたからのようで、憎しみを植え付けるというようなこともしなかったのです。
加えて、異母妹が言うには、一度食べたことのあるわたしの母の料理が、父の好きな味付けで驚いたそうで、「パパは女遊びはしたかったけれど、あーちゃんのお母さんと離婚したくなかったんじゃないの?」と言われて、こんな会話ができる異母姉妹も珍しいだろうなと思いました。
兄は両親が同じ兄ですが、父が溺愛していて手放さず、父方で育ちました。
この兄が、「葬儀に来てくれて、あずさは偉いね」というので、「別に恨んでないし」と言いました。
奇妙な崩壊家庭です。
もちろん父母の離婚の際にはかなりの修羅場だったはずですが。